【大好評】「咲満ちて小山正見の俳句フォト カルタ」販売中!

阿部詩の号泣パリの熱い夏

小山正見

会場に響き渡るような声で泣き叫んでいる阿部詩の映像を見た瞬間の印象は、「みっともない」である。
詩に見えているのは、自分と自分の感情だけだ。周りへの配慮が何もない。詩が退場するまで、次の試合はストップされ、控えている選手は入り口で待たされている。詩の行為はわがまま極まりない。
柔道とは「道」である。負けた時の潔さこそ、「道」の教える一番のことだったのではないか。
しかし、そんなことは詩は百も承知であろう。にも関わらず詩は泣いた。
阿部詩をここまで追い込んだものは何か。
絶対に勝たなければならない。期待に応えなければならない。猛烈なプレッシャーにさられたことは、容易に想像できる。口では「楽しむ」と言っても、実際はなかなかそうはいかない。信じがたいような勝利への努力が潰え、道が閉ざされた時の絶望感。
更に「兄妹で金」という物語が詩をがんじがらめにした。その物語の崩壊に詩は耐えられなかったのではないか。
なぜ二回戦で、強敵のケルディヨロワと当たってしまったのか。結果論だが、世界ランキングを重視しなかった日本側の作戦ミスもあるのではないかと思った。

ここまで書いてきて、全く別のことを書く。
現役時代、ストレスに関する健康診断のアンケートに
「仕事で悩んだ時、誰に相談しますか?」
という項目があった。ぼくは、「誰にも相談しない」と回答した。仕事とはそういうものだと信じて疑わなかったからだからだ。弱音など吐くわけにはいかない。それか仕事というものだ。
診断結果は、「精神が折れやすい」と出た。
そういうものか、と驚愕した。当時は妙な捉えかかたがあるものだと思ったが、今は納得できる面もある。
死ぬ時に静かに死を受け入れるのか、それともジタバタするのかに関する坊さんの話がある。ジタバタするのも人間的ではないかという話だったと思う。
詩がその場を堪えれば、そのストレスは詩の中に埋め込まれ、別の形で彼女を苦しめることになっただろう。
号泣することで詩は精神の崩壊を防いだとも言える。
「我慢しろ」という道徳は正義ではあるが、人間を救うとは限らない。
詩の「わがまま」をパリの観客は温かく見守り声援を送った。
今の日本社会に必要なものは、このような「寛容」なのかもしれないと思った。