俳句フォトエッセイ2024.05.28聖母月ニコライ堂の見ゆる橋小山正見僕の父・小山正孝と母・常子は、戦前の日本出版会で出会った。1944年のことである。初めてのデートの約束は、お茶の水の聖橋だった。この時、常子には、当時お見合いをした婚約者がいた。しかも挙式を2週間後に控えていた。(この事情を母は、92歳になって「丸火鉢」という小説に書いている)戦時色とは凡そ掛け離れた空色のドレスとハイヒールを履いて、常子は聖橋をニコライ堂のドームに向かって歩いて行く。正孝は、ドームを背に歩いてくる。橋の中央で二人は出会い、目を合わせて手を差しのべる。常子は、この時のことを「主人は留守、しかし・・・」というエッセイに「聖橋のデートの模様は出来すぎである。・・・映画のクライマックスの場である。こんな都合のよい風景が創作なしに出来るだろうか。あの時、彼はこの橋の辺りのどこかに潜んでいて、ドームに向かって歩き出した私を綿密に見ながら、丁度橋の真ん中で逢う様に計算して一枚の絵を作製した。歩幅も私に合わせたに違いない。私にはそうとしか思われない。彼のしそうなことである。」と書いている。正孝の代表作の一つに「倒さの草」(さかさのくさ)と題する詩がある。 倒さの草 小山正孝草むらに私たちは沈んだ草たちは城壁のやうに私たちをくるんだ倒さの草たちのそこの空に白い雲が浮んでゐた青ざめたほほと細いあなたの髪の毛と草の根方を辿つてゐる蟻と蜘蛛としめつた黒ずんだ土と・・・・・・暑い暑い夏の日だつたあなたとはもう縁もゆかりもないけれど今も思ふ純粋とはあれなんだ起きあがつた時のあなたの笑顔とすずしい風と美しいくちびるの色!この「あなた」のモデルは、母の常子である。「あなたとはもう縁もゆかりもないけれど」の一節だけは嘘で、僕が産まれた。今でも聖橋からビルの間にニコライ堂が見える。
僕の父・小山正孝と母・常子は、戦前の日本出版会で出会った。1944年のことである。
初めてのデートの約束は、お茶の水の聖橋だった。
この時、常子には、当時お見合いをした婚約者がいた。しかも挙式を2週間後に控えていた。(この事情を母は、92歳になって「丸火鉢」という小説に書いている)
戦時色とは凡そ掛け離れた空色のドレスとハイヒールを履いて、常子は聖橋をニコライ堂のドームに向かって歩いて行く。
正孝は、ドームを背に歩いてくる。橋の中央で二人は出会い、目を合わせて手を差しのべる。
常子は、この時のことを「主人は留守、しかし・・・」というエッセイに
「聖橋のデートの模様は出来すぎである。・・・映画のクライマックスの場である。こんな都合のよい風景が創作なしに出来るだろうか。あの時、彼はこの橋の辺りのどこかに潜んでいて、ドームに向かって歩き出した私を綿密に見ながら、丁度橋の真ん中で逢う様に計算して一枚の絵を作製した。歩幅も私に合わせたに違いない。私にはそうとしか思われない。彼のしそうなことである。」
と書いている。
正孝の代表作の一つに「倒さの草」(さかさのくさ)と題する詩がある。
倒さの草 小山正孝
草むらに私たちは沈んだ
草たちは城壁のやうに私たちをくるんだ
倒さの草たちのそこの空に白い雲が浮んでゐた
青ざめたほほと細いあなたの髪の毛と
草の根方を辿つてゐる蟻と蜘蛛と
しめつた黒ずんだ土と・・・・・・
暑い暑い夏の日だつた
あなたとはもう縁もゆかりもないけれど
今も思ふ
純粋とはあれなんだ
起きあがつた時のあなたの笑顔とすずしい風と
美しいくちびるの色!
この「あなた」のモデルは、母の常子である。
「あなたとはもう縁もゆかりもないけれど」の一節だけは嘘で、僕が産まれた。
今でも聖橋からビルの間にニコライ堂が見える。