俳句フォトエッセイ2025.02.03父母の出逢ひし橋や春隣小山正見父と母の最初のデートの出逢いの場所が御茶ノ水の聖橋であったことは以前に書いた。調べたら聖母月ニコライ堂の見ゆる橋という俳句フォトエッセイだった。昨年の5月の終わり頃である。二人の出逢いがなければ、ぼくは今この世に存在しない。父正孝は詩人として一生を終えた。丸山薫賞をいただき、現代詩人会で毎年、二人程度に贈られる先達詩人の称号を得ているので、それなりの詩人として評価されていたのだろうが、父が死ぬ直前までぼくは父の仕事に興味がなかった。父の作品も読んだことがなかった。父の作品に触れたのは、詩人としての正孝を顕彰する感泣亭の活動を始めてからだ。父と大変仲の良かった奇才坂口昌明さんが、父の仕事を掘り起こしまとめてくださった。それらは『感泣旅行覚え書』や『詩人薄明』『小説集 稚児が淵』にまとめられているがその過程で、正孝の書斎から膨大な量の作品の束が見つかった。一部は『逃げ水』や『愛しあふ男女』の草稿になった節はあるが、どうして発表しなかったのかは謎である。発表の時期を逸したのかもしれないし、表現が直裁すぎるのを嫌ったのかもしれない。しかし!ぼくはこういう生な表現が好きだ。例えば以下のような詩である。誰が一番好きかと聞かれたらお前が好きだと答へよう白い うすい ネツカチーフを首の所からのぞかせて しのび笑ひをして その身をよぢらせるやうにしてゐるお前が一番好きだと答へようさうして お前の目に見入らう 私の氣持が いつまでもきつと変らないないことをはつきりと 口に 出して 言はう 髪の毛の 黒い流れに私の 唇を 急に 近づけよう私は お前を 抱きしめよう父にとって「詩」とはどのようなものであったのだろうか。
父と母の最初のデートの出逢いの場所が御茶ノ水の聖橋であったことは以前に書いた。
調べたら
聖母月ニコライ堂の見ゆる橋
という俳句フォトエッセイだった。昨年の5月の終わり頃である。
二人の出逢いがなければ、ぼくは今この世に存在しない。
父正孝は詩人として一生を終えた。丸山薫賞をいただき、現代詩人会で毎年、二人程度に贈られる先達詩人の称号を得ているので、それなりの詩人として評価されていたのだろうが、父が死ぬ直前までぼくは父の仕事に興味がなかった。父の作品も読んだことがなかった。
父の作品に触れたのは、詩人としての正孝を顕彰する感泣亭の活動を始めてからだ。
父と大変仲の良かった奇才坂口昌明さんが、父の仕事を掘り起こしまとめてくださった。それらは『感泣旅行覚え書』や『詩人薄明』『小説集 稚児が淵』にまとめられているがその過程で、正孝の書斎から膨大な量の作品の束が見つかった。
一部は『逃げ水』や『愛しあふ男女』の草稿になった節はあるが、どうして発表しなかったのかは謎である。
発表の時期を逸したのかもしれないし、表現が直裁すぎるのを嫌ったのかもしれない。しかし!ぼくはこういう生な表現が好きだ。
例えば以下のような詩である。
誰が一番好きかと聞かれたら
お前が好きだと答へよう
白い うすい ネツカチーフを
首の所からのぞかせて
しのび笑ひをして その身を
よぢらせるやうにしてゐるお前が
一番好きだと答へよう
さうして お前の目に見入らう
私の氣持が いつまでも
きつと変らないないことを
はつきりと 口に 出して 言はう
髪の毛の 黒い流れに
私の 唇を 急に 近づけよう
私は お前を 抱きしめよう
父にとって「詩」とはどのようなものであったのだろうか。