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無骨なる枝の先なる芽吹かな

小山正見

「無骨」というより「奇怪」というイメージである。銀杏の枝が自然にこんな形になるわけがない。人間の手によるものだ。枝の瘤が痛々しい。
街路樹として植えたのはいいが、葉っぱが落ちるのが困るのである。掃除を誰がするのかという話になる。
最後に勤務していた江東区立八名川小学校は、校舎の隣が公園になっている。八名川公園という。「江東区のラジオ体操発祥の地」の看板が立っている。
墨田区や江東区の歴史の古い学校の多くは隣が公園になっている。これは、関東大震災の教訓によるものである。避難所としての活用を考えたからであろう。
その八名川公園にも多くの銀杏の木があるが、無惨に枝が払われている。落ち葉で困るという苦情があるからである。反対に近くにある深川神明宮の境内の銀杏はのびのびと枝を伸ばし、秋になると大量の銀杏の葉が降り注ぐ。その様がまた見事なのだ。神様は、やはりおおらかである。
剪定の予算を節約したいという役所の思惑も絡んでいる。
私は、現在は川崎市在住だが、その前は江東区にある海洋大学の近くに住んでいた。けやき並木が見事で毎日その下を通るのが楽しみだった。
そのけやきの枝が突然伐採された。剪定ではなく、あれは明らかに伐採である。不恰好なけやきの枝が可哀想だった。明らかに剪定費用の節約のためだろう。二年に一度していたものを五年に一度にするということだ。
公園や駅前などの花壇の花にも相当な予算が注ぎ込まれているはずだ。自然を維持するには金がかかる。
それはわからなくもないが、心が苦しくなるのも事実だ。