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春なれば春の雲あり春の空

小山正見

「何これ?」と言われそうだ。
「春」は一つあれぱいいだろう。俳句に季語は一つというのは、初歩の初歩の話だと笑われてしまいそうだ。
しかし、私はこの「俳句に季語が一つでなければならない」という教えに少々違和感を感じている。
有名な俳人の句を読んでも「季重なり」の句がやたら多いことに気づく。
「目には青葉山ほととぎす初鰹」はあまりに有名である。「青葉」「ほととぎす」「初鰹」と三つも季語が入っているからである。
高浜虚子に「五百句」という「ホトトギス」の五百号記念の句集がある。これを開いて、季重なりの句がどの位あるか調べてみた。

茶の花に暖き日のしまひかな
秋風にふえてはへるや法師蝉
ぢぢと鳴く蝉草にある夕立かな
冷かや湯治九旬峰の月
霜降れば霜を盾とす法の城
此秋風もて来る雪を思ひけり
蜻蛉は亡くなり終んぬ鶏頭花
露の幹静かに蝉の歩き居り
春水やちくちくとして菖蒲の芽
大蟇先に在り小蟇後へに高歩み
夏草に下りて蛇うつ鳥二羽
やうやうに殘る暑さに萩の露
雪解のすれすれに干布団
枝豆を喰へば雨月の情あり
子供等に双六まけて老の春
ふるひ居る小さき蜘蛛や立葵
這入りたる虻にふくるる花擬宝珠
東より春は来ると植ゑし梅
蜥蜴以下の啓蟄の蟲くさぐさなり
以下略

以上が、季重なりらしき句を抜き出したものの一部である。もちろん虚子の句の圧倒的多数は季重なりではないが、このような句を見ると虚子が季重なりを絶対的禁忌としていた風にも見えない。
では、なぜ「俳句には季語は一つ」が常識として広がっていったのか。
短く、言葉の効率が重要な俳句においては、季重なりは、言葉の重複を伴いやすいのは確かだ。そのため、季重なりの句は良い句になりづらい。初心者に効率よく俳句を教えるにはいっその事に「季重なりはダメ」とはっきり禁止した方がわかりやすいからという指導者側の都合によるものではないかと推測する。

翻って揚句。
私が「春の雲だねえ」と呟いたら、同席していたW氏が
来し方や瞳に映る春の雲
という加藤周一の俳句を紹介してくれた