俳句フォトエッセイ2025.02.05大寒の喫茶店てふ居場所かな小山正見今なら「カフェ」だろう。喫茶店という言葉には昭和の匂いがする。その昔は純喫茶と言った。お酒は出さないという意味が「純」に込められているのかもしれない。喫茶の「喫」は喫煙の「喫」でもある。必ず、テーブルの上には灰皿が用意されていた。店ごとに工夫を凝らしたマッチがあり、それを集めて楽しんだりした。純喫茶が姿を消し、一時街に喫茶店というものがなかった時代があるように記憶している。そこに登場したのが「ドトール」だ。スタンドで椅子がない。ただ、コーヒーを味わうためだけの場所だった。いきなりステーキという店もあるが、こちらも開店当初は椅子がなかった。アメリカの文化なのだろうか。店内には椅子が用意されるようになったのは、しばらく経ってからのことだ。日本人は立ち食い、立ち飲みはあまり好まないようだ。特に喫茶店は単にコーヒーを飲む場ではなく、一種の居場所だからだ。そして、ぼくにとってその事はとても良く当てはまる。ぼくにとって喫茶店とは読書室であり、仕事場であり、妄想を燻らす場所であり、人と語らう場である。コーヒーの味に興味があるわけではない。酒を飲まないので、各場所に気に入りの喫茶店がある。一番気に入っていたのは浅草の国際通りにあった「フラミンゴ」だ。白いタイルの床に真緑の壁。名画らしき大きな絵が壁に掛けられていた。コーヒーの脇にコイン型のチョコレートが添えられていた。20年は通ったろうか。この店はもうない。しかし、2階のバーはまだ営業を続けているようだ。六本木にあったカフェ•ラ•ミルにもよく通った。この店はチェーンで各地にあったが、今はほとんど姿を見ない。神谷町の横濱屋。そして森タワーの近くにあるカファブンナ。この店はコロナの間店を閉じていたが、最近行ったら再開していた。三十年前もおじいちゃんだと思った男が同じ顔をしてコーヒーを入れていた。写真は神保町の古瀬戸珈琲である。店内には壁画が描かれているが、その壁画を描いている画家を眺めながらコーヒーを飲んだこともある。外は寒いが、気に入りの喫茶店に入ると何かほっとするものがある。
今なら「カフェ」だろう。喫茶店という言葉には昭和の匂いがする。
その昔は純喫茶と言った。お酒は出さないという意味が「純」に込められているのかもしれない。
喫茶の「喫」は喫煙の「喫」でもある。必ず、テーブルの上には灰皿が用意されていた。店ごとに工夫を凝らしたマッチがあり、それを集めて楽しんだりした。
純喫茶が姿を消し、一時街に喫茶店というものがなかった時代があるように記憶している。
そこに登場したのが「ドトール」だ。スタンドで椅子がない。ただ、コーヒーを味わうためだけの場所だった。いきなりステーキという店もあるが、こちらも開店当初は椅子がなかった。アメリカの文化なのだろうか。店内には椅子が用意されるようになったのは、しばらく経ってからのことだ。
日本人は立ち食い、立ち飲みはあまり好まないようだ。特に喫茶店は単にコーヒーを飲む場ではなく、一種の居場所だからだ。そして、ぼくにとってその事はとても良く当てはまる。
ぼくにとって喫茶店とは読書室であり、仕事場であり、妄想を燻らす場所であり、人と語らう場である。
コーヒーの味に興味があるわけではない。
酒を飲まないので、各場所に気に入りの喫茶店がある。
一番気に入っていたのは浅草の国際通りにあった「フラミンゴ」だ。白いタイルの床に真緑の壁。名画らしき大きな絵が壁に掛けられていた。コーヒーの脇にコイン型のチョコレートが添えられていた。
20年は通ったろうか。この店はもうない。しかし、2階のバーはまだ営業を続けているようだ。六本木にあったカフェ•ラ•ミルにもよく通った。この店はチェーンで各地にあったが、今はほとんど姿を見ない。
神谷町の横濱屋。そして森タワーの近くにあるカファブンナ。この店はコロナの間店を閉じていたが、最近行ったら再開していた。三十年前もおじいちゃんだと思った男が同じ顔をしてコーヒーを入れていた。
写真は神保町の古瀬戸珈琲である。店内には壁画が描かれているが、その壁画を描いている画家を眺めながらコーヒーを飲んだこともある。
外は寒いが、気に入りの喫茶店に入ると何かほっとするものがある。