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外出れば九月二日の雨しとど

小山正見

九月二日は、ぼくにとって思い出深い日である。
ぼくが小学校の教員になったのは、五十年以上前のことである。一学期の終わり頃、咳が続き、微熱さえ出てきた。近くの病院で薬を出してもらったが、ちっとも効かない。
文句を言いに行ったら、「レントゲンを撮ってみましょう」と言われた。
「ありますね」
肺に影があるというのだ。まさかの結核である。
「どのくらいで治りますか?」
結核は既に死の病ではなくなっていた。運が良かった。
「軽いですから二、三年ぐらいでしょうか」
軽くて二、三年。ショックだった。
八月は、水道橋にある結核予防会に一日おきに通い、ストレプトマイシンを注射した。
強い薬で、注射すると半日は頭がぼおーとして働かない。頬がぴくぴくした。
結核があると教壇に立つことはできない。
清瀬にある三楽病院(当時は教員専門の病院)の野火止分院に入院することになった。
その入院の日が九月二日だったのだ。
四人部屋のベットに横たわり、午後九時の消灯を待った。外の暗闇から冷気と虫の声が入ってきた。空気の冷たさを今も肌が覚えている。
それから半年、ぼくはこの野火止分院で過ごした。
ストマイとヒドラジド、それにパスが三種の神器と言われた。パス自体はそれほど効かないが、ヒドラジドの抗体ができるのを防ぐ役割を果たすと説明された。
胃に副作用があり、その後十数年にわたってゲップに悩まされることになった。
今はどうかわからないが、この半年は「研修」扱いで給与もボーナスも全額支給された。月に一度「研修会」という行事があるだけであとは何をしても自由だった。
五木寛之の「蒼ざめた馬を見よ」や「デラシネの旗」を読んだのも野火止のベッドの上だった。囲碁を本格的に覚えたのもここだった。
極め付けは、ここから東久留米の自動車学校に通い、車の免許をとったことだ。「積極療法」と称して、医者を丸め込んだ。一緒に通った大倉さんは、事務職員だったが、その後司法試験に合格し、弁護士になったと聞いた。今はどうしているだろう。