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ぽつねんと守衛が一人冬深む

小山正見

ここが何処だかお分かりであろうか?実は日本銀行なのだ。日本橋を歩いていたら、突然ここに出た。まじまじと日本銀行を眺めるのは、初めてのことだ。
新しく精緻な紙幣が発行されたが、電子マネーに押されて現物は使われない時代になってしまった。
失われた三十年と言われるが日本経済は一体どうなってしまったのか。
玄関に立つ守衛も何となく頼りなげに見える。

日本銀行で思い出したのは大俳人金子兜太だ。
兜太は日本銀行に定年まで勤めた。「窓際族どころでなく、窓奥族であったからものが書けた」と述べている。
金子兜太は、俳句界の一方の雄であった。現代俳句協会を率い、影響力は俳句界にとどまらなかった。
最晩年の「平和の俳句」の企画は大きな反響を呼んだ。
多くの名句を残した。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り
などなど。
その中でぼくが一番心を惹かれたのは
おおかみに蛍が一つ付いていた
という俳句だ。前衛作家の中のメルヘンを感じるからだろうか。 
ぼくは、兜太から「俳句は形ではない。生きる中身だ」ということを突きつけられた気がする。
ぼくは一度だけ金子兜太と会ったことがある。
映画監督の日向寺太郎氏が「いきもの金子兜太」という映画を作った。その中で金子兜太は八名川小学校のこどもたちに授業をしてくれたからだ。
授業の始めにぼくは校長として、金子兜太を紹介した。
「金子先生は、九十歳になるというのに、このようにお元気です」
というような話をした。すると、声が飛んできた。
「まだ八十九だ!九十じゃない。あと一ヶ月ある」
笑ってしまったが、これが生きる力かと思った。
お帰りになる時に握手をした。太くて大きくて暖かな手だった。その手の温もりを僕の手はまだ覚えている。
現代俳句協会の七十周年記念式典ては車椅子姿であったが、マイクを向けられ、秩父音頭を熱唱された。これがお見かけした最後であった。
次の年の二月二十日。金子兜太はこの世を去った。平和の俳句はまだ続いている。