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うねうねと花芽伸ばしぬ紫木蓮

小山正見

前にも書いたが、ぼくは毎週この道を通って妻が世話になっているグループホームに通う。
この紫木蓮は瀟洒な住宅の庭にある。
つい先日、毛むくじゃらの花芽が姿を見せたかと思ったら、もう花が開き始めた。季節の移ろいは早い。
紫木蓮で思い出すのは、鈴木真砂女の句だ。

戒名は真砂女でよろし紫木蓮

紫木蓮が坊主の袈裟を思わせる。取り合わせの傑作だ。
考えてみれば、我が家も戒名に無関係だ。
父の小山正孝の戒名はない。母の常子の戒名もない。それどころか、仏壇もなければ位牌すら無い。
葬儀は葬儀社を通して禅宗の僧侶に頼んだのは、正孝が禅というものに興味を示していたからに過ぎない。
僕も父の勧めで、正法眼蔵随聞記や碧巖録など関係の書物をよく読んだ。
母はなぜ正孝の位牌を作らなかったのだろう。
母には「位牌を作る」という発想はこれっぽっちもなかったと僕には思われる。
母、常子にとって大切だったのは、この世に生きている「正孝」という人間だったからだろう。戒名をつけ、名前が変わってしまうことなど許せないことだったのだ。
常子は、正孝の死後、正孝のことを書き続けた。これが常子にとっての正孝の供養の仕方だったのだろう。位牌は要らなかった。母の心の中は正孝で満ちていたのだから。
常子は、最晩年の三年余、僕に付きあって俳句を詠んだ。その中の一句

六月に生まれし人と恋に落ち 常子

父の誕生日は、六月二十九日だった。
今、正孝と常子は富士霊園の文学者の墓に隣あって眠っている。正孝と常子の名前のままで。