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カナリアの姿の消へて秋の雨

小山正見

ブレーメン商店街の一画である。隣はアイススリームのサーティワン。その隙間にいつもあったカナリアの籠がない。
もう数日経つ。以前は、鳴き声がよく聞こえてきた。時々は籠の中を覗き込んだ。写真に撮ったこともある。
カナリアの寿命はおよそ10年である。
ひょっとすると・・・
おそらく、もう姿を見ることはないだろう。
西条八十に「歌を忘れたカナリア」というな詩があった。

歌を忘れたカナリアは象牙の船に銀のかい
月夜の海に浮かべれば忘れた歌を思い出す

カナリアは、美しい抒情の象徴のようだ。カナリアの和名は金糸雀。かよわく、はかなく、傷つきやすいものを連想させる。
炭鉱の中にカナリアを持って入ったというのは、有名な話だ。有毒ガスを人間より先に察知し鳴き声が止むことで危険を知らせるからだという。
ぼくも子どもの頃、カナリアを飼った記憶がある。と言っても、餌を入れ替えたぐらいで、糞の処理や掃除は全て母親任せだった。人間を含めて、動物の世話をすることは、糞尿の処理すること同義語だということをその当時は知らなかった。
鳥を飼ったのは、もしかしたら母方の祖父の影響かもしれない。祖父は隣合わせに住んでいた。その事情はここでは省くが、子どもの頃のぼくは、祖父の家の炬燵に入り、テレビを見、風呂に入って育った。その祖父が鳥を好きだったのだ。メジロやウグイスに青菜の擦り餌を毎日あげていた。カナリアもいた。
鳥の病気のことなど心配しなくてよい長閑な時代だった。
学校でも鳥やうさぎなどを当然のように飼っていた。
鳥インフルエンザや感染症が話題になり、自然と人間の隔絶が進んだのは、21世紀に入ってからではなかろうか。
このことが人間に幸せをもたらすのか、不幸をもたらすのか。
商店街のカナリアが復活することはやはり無理な相談だろうか。